弁理士うめざわブログ

特許事務所の弁理士による、特許事務所業界ブログ

サテライトなサイトを作成しました

こっちは一応は考えて書いている記事が大半ですが、
特許業界には触れず、内容の吟味も特にしない
という位置づけのサテライトブログを作成しました。

blog.goo.ne.jp


何のために?というと、インターネッツに詳しい諸兄
が考えるいろんな理由のうちのいずれかが該当します。
それくらい浅はかな理由です。

ただまあ自分としては記事はかき分けるスタイルです。
ブログ以外にも書いている媒体はありますが、
発信する方向性はそれなりに分けています。

そんな訳で「特許業界には触れず、内容の吟味も特にしない」
というブログということにしました。

こっちは内容を吟味してたのかよ、って話はありますが、
それはもちろんしてましたよ。
思いついたものを思いついたまま並べたブログなんて
世の中に掃いて捨てるほどありますが、
そうでないように気を配らないと、
あっという間に埋もれる内容になってしまいます。

という訳なので、分館では、あっさり埋もれてしまうような
不毛な記事を並べる予定です。

高品質な明細書を書く能力というのはもはや価値がない

ま、ここまで書いてしまうと、そんな訳ないのは
書いてるこっちもさすがに分かってますが、
特許を書く能力というのは実は結構いくつかに
分かれていて、その中の文章作成能力、というのは
あまり価値は高くなくなりつつあります。

特許出願をする弁理士として一番必要とされるのは
営業能力です。これがあれば一応独立もできます。
まあ営業はさておき、その次に価値があるのは
何の能力でしょうか。

リーマンショック以前は、優秀なスタッフを
抱えていさえいれば、仕事はいくらでも
入ってきていたという状況でした。
しかし業界不況に入り、発注先が依頼先を「選ぶ」
という状況に様変わりしました。

明細書の品質というのは現場の人間にしか分かりません。
その一方で、会社というのは「選ぶ」という
裁量権を担当者には与えない傾向にあります。
ある程度小さい会社になると、担当者裁量になりますが、
件数の少ない会社では明細書の品質は現場も判断できません。
要するに、発注先を決める権限のある人は、
明細書の品質判断ができない人です。

じゃあどうやって決めるのということになるのですが、
裁量権を持つ人が理解できる能力を有することが必要です。
その能力は、正直言って会社によってまちまちです。
はっきりしているのは、明細書の品質ではないことでしょう。

特許担当弁理士・技術者として一番重要と思われるのは、
発明者からのヒアリング能力です。
発明発掘して、どんなネタをまだ出していないかを聞き出し、
可能であれば資料を揃えてもらうことです。
この能力は、開発の人にとっても、知財面が未発達な会社の
担当者にも伝わるものです。
どんな世界でも、自分が話したことを正確に理解できた、
となると、その人への評価は上がります。
特許の場合は、どんな依頼人でも、発明者レベルでは
大抵の場合は原稿作成は苦手です。
そこを抽出する能力が一番の評価の決め手になるでしょう。

その結果として出てくる原稿は、必要なことが書いてあって、
最終的にそれで特許に導くことができれば十分です。
望む権利にならないと、その時点で問題になりますが、
そうでない限り、それ以上には品質は問題になりません。
というか、この場合の品質というのは何を意味するのでしょうか。
訴訟・係争に強いというならわかりますが、
そういう観点でもないように思われます。
単なるコスト要因のような気もします。

多くの場合は相手の技術・製品を理解することが
相手からの信頼を得ることにつながると思われます。
それ以外にも相手にいろんな情報を提供できるとか、
相手の事情に合わせて柔軟に対応できるとか、
若しくは身だしなみが特にきちんとしているとか、
案外そんなところが理由になったりするかもしれません。

大手企業と大手特許事務所の取引関係では、
明細書の品質が、というのが現場担当者レベルでは
もちろん議題にはなりましょうが、
取引を決めているのはそんな理由ではないはずです。
品質管理と取引関係を厳格管理している会社も
もちろん多くあることは知っていますが、
そういう会社の取引条件は、受任側にとって
魅力がなかったりします。
要するにうるさい割に単価は安いのですね。
高品質な明細書に高い単価を出している会社を、
私は聞いたことがありません。
安い単価とより安い単価を差別化しているだけです。

自分の将来的なキャリア形成を考えたとき、
何を伸ばすべきか、というのは
よく考えた方がよいかもしれません。

実務系の話題がここのところなくなりつつあったので、
こういう話題をぶっこんでみました。

頭の整理のためにブログを書くというのは甘え

なんかまたこの野郎と思われそうなタイトルをつけて
しまいましたけれど、ブログ書くのってのは何らかの
成果が出る形が出てこないと結局は続かない
というのは、前にも何回か書いていて、
今回もそういう話です。

ブログが登場する前からも、インターネットの黎明期から
テキストサイトとかそういうのが出てきて、
いろんな記事を書いて人気を博してきたものも
ありましたが、今ではすっかりなくなっています。

結局ブログを続ける動機がどこかで失われてきて、
そこでやめてしまうことになります。
なんかそんな記事最近書いたなと思ったらこれでした。

patintl.hatenablog.com

自分の場合はサイトのSEO効果を出すためにやっている
というのが正直なとこなので、はっきり言って数字勝負です。
単純にアクセス数を出す意図をもって記事を書いています。

まあ数字になるならないでいうと、たぶんならないなと
思いながら書いている記事も多数なのですが、
やっぱり定期的に書くことが大事なので、
とりあえずこんなんでいいかなという感じで
書くものもそれなりにあります。
継続しているとそんな時期もあります。

ヒットする記事は、これは多分ヒットするなと
認識しながら書いていることがほとんどです。
目的を持って継続すると、狙いをもって当てに行く、
ということにも段々慣れてくるのですね。

そういう商業主義以外の目的をもってブログをやる
のもいいのですけど、何らかの成果を意図して
続けることが大事で、そうでないと結局途絶えます。
長く続けるとやるのが面倒な時期が必ず出るので、
そこをなんとか続けるのは理由がいるのです。

そこの理由として頭の中を整理するとか、
自分の考えを発信するとか、そういう漠然とした
理由で記事を書いていくと、対価が不明瞭ですから、
続けることの馬鹿馬鹿しさに耐えられなくなる
時期が必ず来ます。自分もたかが3年半ですが、
やる気が失われた時期はそれなりにあります。
辞めるとサイトの検索順位が下がるな、
というのが続ける動機でした。
その結果書くのは、書きたいことではなく、
こういうこと書いてアクセス稼ごう、
というネタになるのですが、その結果
案外アクセスが集まったりして、
そういう繰り返しで継続する動機になりました。

まあなんとなくブログはじめてもよいのですが、
何を書いてアクセスを集めて、それをどう
コンバージョンするか、という構想は
最終的には必要になる思います。
といっても、「商標登録取らないといけませんよ」
みたいな啓蒙記事をそのまま鵜呑みにする人も
いませんので、仕組みを考えることも大事でしょう。

自分はそんなこと考えていないよ、あっはっは、
という長期継続者もいますが、そういうのは、
試験前に自分全然勉強してないよ、といって
高得点を取る同級生のようなもので、
じっくり見てみると案外仕組みがしっかりしています。

ビジネスをやる、というのはこういうことを
考えることの連続なので、独立とか創業とか、
そういうことを考えている方は、勤めているうちに
色々考えておいた方がいいでしょう。
何も考えずに独立している人は、独立してから
結構苦労している感じはします。
イデアをどんどん出していくタイプは、
立ち上げが早いなと思ってます。

携帯の機種変更と番号の誤入力

最近格安SIMというのがでているようなので、
それを受けて今週は携帯端末を機種変更しました。
価格を比較すると非常に安いなということなのですが、
実際どんな感じかはもうちょっと使ってみないと分かりません。

最近はアドレス帳を移行することも必要な状況では
なくなりつつあるのですが、必要なアドレスもあるので、
それは手入力でメールを送ってみました。
SMSだと電話番号での入力ですね。

内容的には「飲みに行きませんか?」的なたわいもない
話だったのですが、番号の入力を間違って送ってしまいました。
おそらくは全く知らない人のはずです。
そしたら返事で「ご無沙汰です。了解しました。」との返事。
もちろん平謝りでしたが、向こうも向こうでもしかして
知ってる人だったかもしれない・・・と思ったのかもしれません。

ウェブでいくつかの入力フォームを用意して、
それぞれアドレス入力をしてもらったりすることもあるのですが、
けっこう誤入力が多いのですね。なんでこんなに多いのか
と思っていたら、自分も間違ってしまいました。
やっぱりこれは、気を付けたほうが良いなと思うのです。

今日書いた記事は差し替える事情が出たので新しく書き直しました。
記事は内容をある程度ぼかしたものでないと、正確さの問題
が出るので、実名を出す記事は書かないほうが良いですね。
相手がある内容と、相手があるようでないものとでは違いますね。

人工知能への過大評価は、たまに良いことをした不良が褒められるのに似てる

人工知能って概念は結構昔からあります。
人工知能への期待ってのは、昔から高くて、
それでいて期待外れであり続けたのですね。

だからまあ、今更人工知能が、という盛り上がりを見せて
いるようなのですが、そういうのを思い出すと、
素直にその盛り上がりに乗れない、という本音があります。

もちろん人工知能に関する技術革新がここのところ
大きく進んだというのも事実でしょうし、
技術的特異点を過ぎれば、パソコンやインターネットのように
急速に世の中を変えるということもありうるでしょう。
しかしながら、現在人工知能を取り巻く期待のうちの、
100くらいあるうちで実際に叶うのは
1くらいではないの、というのはあります。
もちろんその1つが叶うのであれば、それはきっと
イノベーション的にすごいのではあるでしょうけど、
けど実際は残りの99は実現しないのではないの、
という思いもまたあります。世の中のほとんどのものは、
人工知能に取って代わられることはないでしょう。

要するにそれなりの成果は出てくるでしょうけど、
期待しすぎだと思うのですが、どうしてこんなに
盛り上がるのでしょうか。
それは多分、かつて過大評価だった人工知能が、
それからしばらく過小評価の時期を経て、
今度は再び過大評価に戻りつつあるのではないかな、
とそんな気がするのです。

twitter.com

自分いまいち凄さを感じないのは、現在の人工知能について
そこまでの深い理解がないからなのかもしれません。
そういう冷ややかな見方だった人間が、想像していた以上の
人工知能技術の進化を目の当たりにしたとき、
必要以上に興奮している、ということなのかもしれません。
それは多分、冒頭のタイトルのように、
たまに良いことをした不良が褒められてるような状況ですね。

自分としては、実際に何か生産的なものが実現されて
はじめて人工知能はすごい、でよいような気がします。
囲碁とか将棋のAIは単に膨大なデータベースを
マシンパワーで力押ししているようなので、
いうほど人工知能で何かができる状況が
産まれてきている気はしないのですよね。

さてこれからどうなることでしょうか。